死なない少女(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想)

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1.

 序盤では一切明かされることがなかった過去の出来事や登場キャラクターたちの馴れ初めを、物語の後半にまるで堰を切ったように立て続けに開示していき、独特なエモーションを獲得することに成功しているのは、この作品の監督である古川知宏の、さらに師匠筋にあたる幾原邦彦の作品によく見られる作劇の手法である。これは幾原の2011年の作品『輪るピングドラム』において特に顕著であるが、古川はこの作品にもスタッフとして参加していた。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、古川はこの手法でヒロイン・愛城華恋を掘り下げる。TVシリーズでは断片的にしか描かれなかった、彼女が運命の舞台に一緒に立とうと誓った相手で、この作品のもう一人のヒロインである神楽ひかりとの出会いと、彼女たちが互いに運命を共有するに至るその過程が、映画ではより仔細に、回想の体で何度もインサートされる。TVシリーズではいつも天真爛漫で快活な姿を見せた華恋の、言ってしまえばアニメ・ヒロインとしての虚無的な像は、彼女が幼少期より抱えていた迷いや隠し事がつぎつぎと観客に露呈されることによってどんどんリビルドされていく。

 これまで絶対的なヒロインとして君臨し続けた、ある種、超人的なその華恋が、レヴューにおけるまさに"最後のセリフ"として、今まで決して口にすることのなかった「私もひかりに負けたくない」という、あまりにも泥臭いセリフを懸命に振り絞るのは、言うなれば華恋にとっての人間宣言であっただろう。その"最後のセリフ"に呼応するかのように、「運命の舞台のチケット」と称して交換し合った二人の髪留めは弾け飛び、幼い頃に交わした約束を象徴する東京タワーは真っ二つに折れ、ポジション・ゼロに突き刺さる。この作品にとっての推進力であり、二人にとってはもはや呪縛と化していたであろう「運命」と「約束」からの解放を意味するこのシークェンスは、同時に、二人のレヴューを見届けていた舞台少女たちが自らの上掛けを空に放つ所作も手伝い、映画のテーマである「卒業」を強く彷彿とさせる。

 TVシリーズを作り始めた初期の頃から、スタッフ・サイドがこの展開を描くと決めていたとはさすがに思わないが、この「私もひかりに負けたくない」というセリフを発することで愛城華恋というキャラクターは、作品における全ての物語的な伏線を回収することに成功し、ついにキャラクターとしての完成を見ることになるのだから、これは物語のおよそ完璧な幕引きであると言えよう。幾原がTVアニメの前半と後半を使って起こすマジックを、古川は贅沢にもTVアニメと劇場版を使って描き切ってみせた。

 

 が、真の意味で驚かされるのはこれよりさらに後の展開である。

 

2.

 最後のレヴューを終え、歩み寄ってくるひかりに対して華恋は憔悴しながらもこう言って微笑む。

 

「演じ切っちゃった、"レヴュースタァライト"を」

 

 作品内には"スタァライト"という舞台の演目が存在するため、ただの"スタァライト"という言葉が登場キャラクターたちに発せられるのを観客はしばしば耳にする機会があったが、ここで言われる"レヴュースタァライト"はそれとは違う。明らかにこのアニメ作品『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』そのものを指した言葉である。このとき、華恋はあまりにも不自然なカメラ目線で、(それはまるで第四の壁を超え観客に直接語りかけるように)「演じ切っちゃった」と微笑むのだ。

 アニメの登場キャラクターが、そのキャラクター自身を"演じ切っちゃった"と自覚する先にあるのはキャラクターの完全な消滅だろうか。観客が刹那に抱くその疑問に解答を与えるかのようにひかりはこう呼応する。

「じゃあ探しに行きなさいよ。次の舞台、次の役を」

 "愛城華恋"を演じ切ることで空っぽになってしまった華恋に対して、ひかりは「次の役」を探しに行けと助言する。このような常軌を逸したメタ会話の応酬によって理解不能なドライブを突如として見せながら、なんと映画は、ひかりのこの言葉に華恋が力強く「うん」と応じることでエンドロールを迎えてしまうのだ。

 瞬時に連想されるのは、幾度も公開延期を重ねて、3月8日にようやく封切られた庵野秀明監督作品『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』そのラスト・シーンである。

「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と言って、エヴァの存在しない世界へと書き換えた碇シンジが、山口県宇部新川の駅のホームを飛び出し、実写で撮影された現実の街へと繰り出していくその姿は、アニメーション作品であることをメタ的に捉えてみせた直近の好例である。さらに2018年のTVアニメ『SSSS.GRIDMAN』もその最終回では、新条アカネの覚醒を実写で撮影する作劇上重要なメタ演出を見せている。だから、この『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もそれらの類例に従い、エンドロール後に短い実写パートが控えているのではないかと予想し身構えるのだが、映画はそうはならなかった。

 短いエピローグが用意されていることはたしかだ。しかしそれは実写映像にはいっさい頼らず、完全アニメーションによって描かれた、愛城華恋の新たな作品のオーディション・シーンである(華恋はこのエピローグでは一度も顔を見せることはなく、さらには作品内の彼女には似つかわしくない、履き潰したスニーカーと草臥れたリュックサックを持ち、愛城華恋であることを放棄したかのような出立ちでオーディション会場に着座している)。

 これが愛城華恋の声を演じている小山百代本人による、実写撮影のオーディション・シーンであれば、それが映画として鑑賞に耐え得るかは別として、まだ理解はできる。レヴュースタァライトを演じ切っちゃったというのは華恋と同一化した小山自身のセリフとして受け取ることは容易に可能であったからだ。

 しかし繰り返しになるが、映画は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』や『SSSS.GRIDMAN』のラストのような実写を用いた撮影をいっさい行なわずにその結末を描く。これが何を意味するか。愛城華恋は、愛城華恋として『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を卒業し、愛城華恋として作品の外側へと旅立って行ったということだ。

 既存のメタ演出によるアニメーション・キャラクターたちの解放とは趣の異なるこの愛城華恋による『レヴュースタァライト』からの卒業は、この先も我々の意思とは無縁に、華恋はアニメーション間を横断しながら、今、まさにこの時もどこかで生き続けているのだという、未だかつて誰も体感したことのなかったであろう、極めて奇妙な不死の印象を観客に与えることとなる。観客は迂闊にも映画の最後にアニメーション・キャラクターが真の意味で不死身の身体を獲得するその姿を目の当たりにすることとなるのだ。

 

3.

 映画では、電車が非常に象徴的に描かれる。それは卒業を目前に控え、進路に悩む少女たちの人生そのものに重ねられてのものという向きが強いが、映画内で一度死んでしまった愛城華恋を「アタシ再生産」と蘇生させ、マッドマックスよろしく砂塵捲き上がる砂原を渡ってひかりの待つ約束の舞台に向かわせた、いわば現世と冥界をつなぐ乗り物でもある。

 あまりにも複層的なメタ展開と、惜しむらくは本稿でいっさい触れられなかった、豪華絢爛で目眩を起こさせるような舞台少女たちのレヴューの数々によって、大場なな言うところの「なんだか強いお酒を飲んだみたい」に完全に酔わされた私たちが、まさに明日乗り込もうとしているその電車は、映画の中で現世と冥界をいとも容易く連結させたみたいに、ひょっとしたら我々が暮らすこの世界と、アニメーションの世界を見事につないでみせ、そこに愛城華恋たちを乗り込ませるかもしれない。そんな期待の入り混じった恐ろしい錯覚を私たちに与える。

 

 いいや、それは錯覚などではないのかもしれない。この異様な風格を漂わせる傑作映画を体験しておきながら、誰がそれを錯覚だなどと切り捨てることができようか。もはやこの眼前で何が起きようと不思議ではない。今はただ、そう感じる。