悼むこと、乗り越えること (『すずめの戸締まり』感想)

 

 「みみずくんは地底に住んでいます。巨大なみみずです。腹を立てると地震を起こします」とかえるくんは言った。「そして今みみずくんはひどく腹を立てています」

 

村上春樹「かえるくん、東京を救う」


 『すずめの戸締まり』を見てまず驚いたのは、新海誠地震という自然災害を視覚的には空から降るものとして描いていたことでした。『君の名は。』での彗星の落下、『天気の子』での東京を水没させる大雨と、前2作ではどちらもその大災害を空から地上へと降り注ぐモチーフで描いていました。そして今回の『すずめの戸締まり』でも、地震は日本列島の地下にうごめく「ミミズ」により発生する災害であると定義づけているにも関わらず、そのメカニズムは、「後ろ戸」から「現世」へと姿を現したミミズの胴体が天高くから落下することによる衝撃として描いています。直截的に地中の振動として地震を描くことがこの国では未だグロテスクに映りすぎるという配慮があったのだろうとも推察します。が、それ以前に新海誠は、まるで現実と見紛うように周到に描き込まれた背景美術を得意とする作家ですから、地震の原因ですらも上空に求め、そのアクションを撮る際に、空や雲や街並みを描きたいと思うことは自然なことだったのかもしれません。また、迫り来る災害に際して、登場人物が空を仰ぐという構図は、絵的に十分わかりやすいというのもあったでしょう。

 ここで私が思い出したのは今年の8月に公開されたジョーダン・ピール監督作『NOPE/ノープ』のことでした。"Gジャン"と呼ばれる謎の飛行「物体」による人間への侵害行為と、それに対抗する人々の姿を描いた映画で、その攻撃はやはり空から地上に対してのものでした(飛行しているのですからそのような構図を取るのは当たり前ですね)。『NOPE/ノープ』におけるこの空からの攻撃は、それそのものが明確に、優位な立場から弱者への搾取や暴力をメタファーとしたものでしたが、新海の空から降る災害には、逃れられない暴力性という側面はあるにせよ、そのような意図はほとんど感じられません。しかし、公開時期の近かったこの2作からは奇しくも同時代性のようなものを感じることとなりました。

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 さて、前述の通り『すずめの戸締まり』は震災を題材とした映画です。『君の名は。』『天気の子』から続く東宝配給のディザスター・ムービーでありながら、今回、過去作品とはっきり違うのは、11年前の3月11日、実際に東北地方を襲った東日本大震災という、現実の日本で起こった災害を作品のテーマとして真っ向から扱っている点です。九州の小さな町に叔母と二人で暮らす鈴芽ですが、(冒頭部分から示唆されつつも、)彼女は4才のときに東日本大震災で母親を亡くしている震災孤児であることが作中で明かされます。その鈴芽が、呪いによって母親の形見である小さな椅子に姿を変えられてしまった美しい青年・草太と、様々な人の助けを借りながら各地で起ころうとする地震を未然に防ぐため日本列島を北上していきます。これまでよりも色濃く「行きて帰りし物語」の体を取っていて、新海が強く影響を受けている宮崎駿村上春樹のような物語構造を鮮やかに踏襲しています。

 また、『君の名は。』と『天気の子』は同じ世界線であるような暗示が、共通する人物の登場によってなされていましたが、今回の作品世界はそれらとは一線を画しているわけです。考えてみれば、立花瀧として前2作に声の出演をしていた神木隆之介が今回は瀧ではなく、芹澤朋也というメインキャラクターで起用されているのは、別の世界線の物語であるということを強く打ち出す意味が込められている配役のようでもあります。蛇足ですが、神木隆之介は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でもそのラストシーンに、変声した現代の碇シンジとして声を当てていた役者でした。あのサプライズ起用には、俳優である神木がシンジの声を当てることにより、「アニメ/物語」ではない「現実」への帰還に成功したということを表現しているのだと私は解釈していたので、今回『すずめの戸締まり』を鑑賞して、最近の神木隆之介は声を当てる際にメタ的な意味を多く背負わされてえらく大変な役割ばかりだなとつくづく感心したのでした。

 

 話が大きく逸れてしまいました。

 日本各地の「後ろ戸」を閉じながら北上をする鈴芽はとうとう実家のあった東北の町へと12年ぶりの里帰りをします。鈴芽にとって町の一帯は痛みの記憶として深く胸に刻まれているものなので、同行した芹澤が車を停めて「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」とつぶやく視線の先の景色を同じように眺めてみても、思い出される当時の凄惨な風景からその言葉をうまく飲み込めないという場面は非常に衝撃的に映りました(なんでもないような風景をいかに美しく描くかということに注力してきた新海誠作品の中でこの描写はかなり自己批評的な側面も強いように思いました)。しかし、未だ癒えることのない痛みを抱える鈴芽は、それでも「常世」に迷い込んだ過去の自分に対して「あなたは、光の中で大人になっていく」と言いのけるのです。映像的には、母親であるかのようにミスリードされ続けた夢の中の人物の正体が実は現代の鈴芽だったと判明するシーンです。鈴芽が自分自身で、過去の鈴芽に祝福の言葉を与える終幕に程近い場面ですが、序盤の「死ぬのなんか怖くない」と言っていた頃ではきっと伝えられなかった言葉なのだと思うと、旅の中での鈴芽の成長が感じられる素敵な場面であったと思いました。「光の中で大人になっていく」というのは鈴芽の実感から来る言葉です。鈴芽以外の誰かでなく、鈴芽自身の言葉でこれが語られるために、綺麗事なんかでは全然ないというある種の安心感をこの展開には感じることができました。また、これを幼い自分に伝えることで現在の鈴芽自身も救われる構造になっている。過去の自分との対話の中で色々な気持ちに折り合いをつけていくということは私たちが普段から行なうことであって、そこにはなんら嘘がありません。非常にクレバーなバランス感覚で作られた見せ場のシーンです。

 思い返してみると『君の名は。』という物語は、実は既に死者となっていた想い人と奇跡的に邂逅を果たす、さらには大勢の死者を生んだ彗星落下の事故から村人全員を救出する、そんなありえない奇跡を描いたファンタジーのお話でしたが、今回の『すずめの戸締まり』では亡くなった母親との再会は最後まで果たされません。実際の震災を描いている以上、それは当たり前のことです。ただ、この物語の変遷を見たときに、少なくとも新海誠の中では『君の名は。』から6年が経った今(震災からは10年以上が経ちました)、当時の記憶を残しておくために描くべきなのは、祈りから来る「奇跡」の物語ではなく、起きたことを風化させないこと、忘れないこと、悼むことにより乗り越えていこうという「超克」の物語だったのかなということを思いました。

 

 そういえば実家へ向かう道中、鈴芽を荷台に乗せ、汗をかきながら自転車を漕ぐ叔母・環の「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」というセリフも非常に印象的で胸を打つものがありました。これはまた別の文脈で語られた言葉ではありましたが、この映画の主題を言い表そうとしているセリフだったことは間違いない。それは鈴芽にとっての12年間を捉えた言葉のように響きます。『すずめの戸締まり』は、「ぜんぜん、それだけじゃな」く、今日まで大人になってきた鈴芽という少女のその成長の物語でした。

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 おそらく、今までの新海作品以上に飲み込めないで拒否反応を示す観客が多いのではないかと思います。扱っているテーマがやはりそれそのものとなると、きっと生理的に受け付けない、受け付けられないという人も少なくないはずです(なのでいま現在、諸々の映画レビューサイトで高評価をキープしていること、ものすごい勢いで興行収入を増やしていることには素直に驚かされます)。

 多くの人がそうであるというように、新海誠が災害をテーマに据えて映画制作をするのは一旦ここまでとなるような気がします。この路線をテーマに伝えたいメッセージはこれまでの3作、特に今回の『すずめの戸締まり』で出し切ったかのように思えたからです。

 この作品の公開が早すぎたか、それともこのタイミングで世に放ったのは正確であったのかは正直なところ、鑑賞から今日まで判断ができずにいました。それほどまでに繊細で複雑な題材です。映画の内容にはやはりすぐには飲み込めないことも多くありました。ただ、新海誠はこの10年以上を、アニメーション監督として真摯にこのことと向き合っていたのだと感じました。『すずめの戸締まり』が一人でも多くの人の心を救う、そんな気づきを扶助する作品になっていることを願います。