全3巻で完結する漫画を紹介

 現在の個人的な気分で「これだけは読んでください」と推薦したくなる完結済み漫画を紹介します。すべて全3巻の作品で統一しました。これというのも、全3巻という長さに私自身、強い愛着があるからです。何日もかけて読まなくてはいけないというほどではなく、それでいてたしかな読み応えがあるという絶妙な長さで、読後の余韻は120分程度の映画を見終えた後と近いものがあると思っています。それに3冊で終わるというのは作品を買い集めるにしても経済的に優しいですし、そういった点でも気に入っています。

 選んだのは全5作品、順不同です。最初に書いている通り、現在の気分が強く反映されていますから、今回選外に漏れた作品がここで紹介する漫画よりも劣っているとかそういったことは特にありません。それでは始めます。

 

1.バララッシュ / 福島聡 (全3巻)

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 この作品は比較的最近になって初めて読みました。もともと私が好きだった『ブランクスペース』の熊倉献さんがTwitterで紹介していた作家ということで興味を持ったのがきっかけです。

 1987年、高校の同級生だった山口と宇部というふたりの男がプロとして共にアニメーション映画を作ることを誓い合い、その道へ進んでいくという物語です。

 アニメ監督志望の山口と、アニメーター志望の宇部。高校で宇部の天才的な画力に目をつけた山口が、ふたりでアニメの世界を目指すことを提案するのですが、この山口はアニメ知識は誰よりも豊富なのですが絵が全然描けません。ですから山口は最初、アニメの制作としてキャリアをスタートするわけです。一方の宇部はやはり天才的な才能を持っていますから早いうちから有名なアニメ監督に原画として起用されたりします。山口の方にも「なんでこいつだけ…」と嫉妬心が芽生えたり、途中ちょっとギスギスしたムードになるのですが、この才能の有無に端を発する仲間内の不和というのは漫画に限らず物語には頻出します。松本大洋の卓球漫画の金字塔『ピンポン』もそうですし、私の大好きなアニメ映画『リズと青い鳥』もこれに該当すると言えるでしょう。それでもこの作品のふたりの不和をなんだかんだ安心して見ていられるのが、この漫画の構成が、第1話の時点で、中年となった現代(2017年)のふたりが監督と作画監督で名を連ねているアニメーション映画をふたりで仲良く映画館へ見に行くシーンから始まるからです。この漫画自体が、紆余曲折あったけどアニメ業界で成功を掴んだふたりの長大な回想の体になっているわけですね。作品のテンポ感の良さも、そこに主眼を置く必要がさほどなかったことに由来しているでしょうし、第一、このシーンから物語を始めているところを見ると、最初からあまり連載を長期化させようとは考えていなかったのかなとも思います。

 実際のアニメ業界がこの作品で描かれているのと比べてどうかというのは分かりませんが、業界の一端が垣間見えるような描写はとても興味深いですし、それもこの作品の大きな魅力です。アニメ業界とは少し違いますが、バディで漫画を作る『バクマン。』や『G戦場ヘヴンズドア』(これも全3巻ですね)とも多くの点で通じるものがある熱血青春系漫画の佳作だと感じています。表紙デザインも、カバーが原画で、帯が仕上げのイメージなのがなかなかおもしろくて気に入っています。

 

2.ヴォイニッチホテル / 道満晴明 (全3巻)

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 2作目は道満晴明の『ヴォイニッチホテル』を推薦します。個人的にはオールタイムベストにも挙げたいくらい大好きな作品です。構成が非常に巧みで、多数登場するキャラクター達の扱いが全くぞんざいになることなく、完全な統制を効かせながらおよそ9年間の連載を鮮やかに駆け抜けた一級の群像劇です。

 物語は太平洋南西に浮かぶ小島のホテルに日本からの旅行客クズキ・タイゾウが訪れるところから幕を開けます。一話一話の長さが6〜8pとかなり短く、単行本で読む際のテンポ感はそのため小気味いいものになっています。先にも群像劇と言っている通り、クズキが島で出会うホテルの宿泊客や従業員、島民などとの交流から生まれる人間ドラマが魅力的な作品で、後から「あれはこういうことだったのか」ということが一つ一つ繋がっていくことの気持ちよさがあります。中でも、島で起こる謎の事件を追い続けている少年探偵団がいるのですが、彼らの出てくるエピソードはどれも印象的です。それと実際に読んでいただければ分かりますがギャグがどれもおもしろいですね。言葉選びとか下ネタとか他作品からのパロディとか、次々とスタイリッシュに決めていく様はもはやおもしろいを通り越してかっこいいとすら思えます。ギャグとは違いますが、中でも驚かされたのは物語のラストでなんの脈絡もなく空からあるものが降ってくる展開です。これが有名な群像劇映画のラストシーンの明らかなパロディになっているのですが、このネタの選出にはかなりグッときました。群像劇という繋がり以外本当に何の意味もないわけですから。9年間続けた連載の締め方をこれに決定できることにも感服しますが、非常に爽快な終わり方なもので個人的には大変気に入っています。

 また、9年の長期連載ということもあり初期の絵柄は今から見てみると一世代昔のタッチになっているのもなかなか興味深いなと感じました。

 

水は海に向かって流れる / 田島列島 (全3巻)

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 『バララッシュ』もそうですが、こちらは昨年に完結巻が出たばかりの比較的新しめな作品です。『子供はわかってあげない』で大きな話題を集めた田島列島の最新作ということで、連載当初から注目されていたような印象があります。

 前作『子供は〜』が、人と人との繋がりを描く際に、あまり繊細な内面描写を描きすぎることを避けたコミカルな作品であったのですが、こちらは人物達の複雑な心の内にも踏み込んだ描写が数多く見られました。物語の重要なテーマにも「不倫」というものがありますし、前作と比べると少しシリアス寄りな作風かなと思います。そういった難しい人間ドラマを描く上で、キャラクター達の描線がかなり淡白な、漫画的にデフォルメが施されたこのデザインとの相性はどうだろうと初期の頃には多少感じていましたが、逆にそういった心理描写を描く際に激情的になりすぎない点が功を奏したのではないかと思います。

 過去のとある出来事のせいで恋愛をしないと心に決めている榊さんと、次第に彼女に惹かれていく高校生の直達くん。第1話での出会いのシーンでは、この恋が難しいものになることを暗示するようにすでに雨が降っているのがとても印象的でした。このふたりが3冊かけて運命を超克していく物語なわけですが、榊さんがラストに放つ素晴らしいセリフには読者の多くが感動させられたのではないでしょうか。『子供は〜』のラストもそうですが、映画的な余韻を生むのが非常に上手い作家なのだとこの2作を読んで確信しました。

 主人公は直達くんと榊さんのふたりですが、脇役達もみなとてもいい味を出しています。このふたりを含めた5人が一つ屋根の下で共同生活を営む物語なわけですが、性悪というのが一人も出てこないのが読んでいて苦にならず楽しめました。『ヴォイニッチホテル』のギャグが鋭角に刺してくるようなものだとするなら『水は海に向かって流れる』のギャグはそれとは違って人物の温かみが感じられるようなものが多かったです。優しいタッチで描かれているというのが大きいのでしょうが、そういったところに間口の広さを感じられ、万人に推薦できるような作品です。

 

4.がらくたストリート / 山田穣 (全3巻)

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 これはまずとても絵が上手い漫画だと思いました。線が細かくて人物や機械の輪郭の精度も高い。いちいち女の子の身体が物語的には全く関係ないところでとても性的に描かれていて驚かされるのですが、実は作者は「ZERRY藤尾」という別名で成年漫画も執筆しています。成年漫画を執筆している点では『ヴォイニッチホテル』の道満晴明とも共通しますが、雑学めいた会話劇が繰り広げられる点もかなり似ているのではないかと思います。というか、こちらの雑学の方がガチ度においては勝っているというか、それがやりたいがために、物語は二の次で蘊蓄を披露しているきらいすらあり、それがまあとても面白いわけです。完璧な炒飯の作り方であるとか、投球のキレであるとか、言ってしまえばくだらないことを丁寧に解説する回が多く、当然吹き出しの文字数は他の選出作品と比べても段違いに多い(笑)。個人的にこういう作品は大好きですね。メインの物語も民俗学的なモチーフを取り入れており、かなりスノッブな作品だと思っています。高い画力を有しながら雑学をひけらかすことに全力である様が素晴らしいです。実際に読んでみるとこのクセになる感覚はよく伝わるのではないかと思います。ちなみに成年漫画の方もほとんどこのノリで、雑学先行でエロは二の次くらいの作品が多くそれも含めてこの作家のことは大変気に入っています。集英社から出ている『昔話のできるまで』という短編集も面白いので是非。

 

5.『万引きJK生けいおん部!』他 / 蛸壷屋 (全3巻)

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 最後は変わり種というか、同人誌からの選出です。番外編というか、この作品だけは他と違って決して推薦するというのではないです。紹介しておきながらなんですが普通に最悪な作品です(笑)。

 京都アニメーション山田尚子初監督作品であるTVシリーズけいおん!』は2009年の4月から放送が開始され、この作品は早くもその年の8月の夏のコミックマーケットに並びました。大人になった律がラーメンを啜りながら「ありゃー…唯とうとう死んじゃったか…」とテレビのニュースを見ているコマは非常に有名ですね。

 原作とTVアニメが持っている和やかな作品ムードを完全に無視した残酷な人間ドラマを、良心を捨て去り3冊に渡ってまざまざと見せつけ続けた作者の手腕はたしかなものです。元は漫画家志望であったということもあってか、二次創作でありながら強い作家性が打ち出されています。救いのない展開が終始続くので、原作ファンの中にはこれを一切受け付けない人も数多くいるだろうと推察できます。

 さて、この作品の唯と澪にも、『バララッシュ』の際に少し説明した、才能の有無に端を発する不和が多分に見られます。というより基本となるエピソードがそれと言ってもいいでしょう。第1巻から、凡才として描かれる澪の、天才・唯に対する巨大な羨望と嫉妬が大きく渦を巻いているわけですが、他の作品と違うのはそれが一切の報いを見ることなくバッドエンドを迎えてしまうところでしょうか(最後の最後にはちょっと希望のようなものが見えなくもないですが)。凡才が弛まぬ努力で天才に打ち勝つような、また、たとえ打ち勝てなくても自らの進路に希望を見出すような展開がこの手の結末の定石であるはずなのですが、ここで描かれる澪はもう全然ダメです。唯という天才の傍らで、自分にだって何かあるんじゃないかと、27才にして裸でベース演奏の生配信を行ないますが、視聴者達から書き込まれる「ババア乙」等のコメントを読んで布団の中で発狂してしまいます。このシーンで澪が抱いたであろう「私はもう若くなく、才能なんて何もなかった」という恐怖心は誰しもが大なり小なり感じたことのある根源的な恐怖ではないかと思っています。こういった描写を説得力を持って挿入できるところがさすがに強烈で、感嘆せざるを得ません。

 

 

 紹介は以上の5作品となります。比較的有名どころばかりですが、面白さの保証できるラインナップになっていますので、読んだことのない作品があれば是非読んでみてください。

音のない世界で(『ドライブ・マイ・カー 』感想)

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 濱口竜介監督の作品は、これまでに何度も動く乗り物を印象的に撮影してきたことが思い返されます。2010年の『THE DEPTHS』でも、2012年の『親密さ』でも、並走した2台の乗り物が徐々に引き離されていくその様子をカメラがじっくりと捉えて終幕を迎えました。しかし、今回の乗り物の扱い方はそういった2つの運動のシンクロニシティーから発せられるプリミティブな映像的感動とは一線を画すようなものだったと思います。たしかに、本作でも並走した2台の自動車を同時に撮影する妙技は見受けられましたが、これは中盤の、言ってしまえば比較的どうでもいいシーンにおいてです。それよりも今回、自動車は終始「移動する密室」としての機能を果たしていたと言えます。その中で同じ空気を共有することによってしか開示され得ない人物たちの内面、そこから繰り広げられる、心情を吐露するような会話劇を周到に描くという、映画における自動車の別の持ち味が最大限に活かされていました。それに加えて、「演じる」という、これまた濱口監督が常々標榜してきたテーマも加わりますから、村上春樹のこの『ドライブ・マイ・カー 』を原作に映画を撮るというのは監督にとって至極真っ当なことであったのではないでしょうか。

 

 50p程度しかない原作小説に大幅な改変を施した本作は、最愛の妻に先立たれた舞台役者で演出家の家福が、女性ドライバーのみさきとの出会いをきっかけに、妻との別離に今一度向き合い、深い悲しみを抱きながらも、それでも生きていくことを決意する物語です。

 改変によって新たに生み出された沢山のpieceが、3時間にも及ぶ長編映画を完成させるために一つも余分にならず、次々と嵌め込まれ機能していくかのような脚本の構成力にはただただ感服する他ないのですが、なんと言っても一番素晴らしいのは、亡くなった妻に「音」という名前を与えたことではないでしょうか。原作ではただの一度も名乗られなかったこの女性にあえて与える名前がsoundの音というのは示唆的です。どういうことか見ていきます。

 音は生前、車で移動する時間にお芝居の台詞を練習する家福のため、カセットテープに自らの声で朗読を吹き込みそれを渡していました。そして亡くなる直前、最後に吹き込んだのが、この映画の中ではメインに扱われることになるチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』です。映画のエンディングでも、この『ワーニャ伯父さん』第4幕のソーニャによる最後の台詞は、ユナの韓国手話によって美しく見せられました。

 しかし、ここで思い返したいのは、音が自宅のリビングで倒れているのを家福が発見する直前のシーン(オープニングテーマが流れるよりも前のアバンのシーンになります)で、駐車場に車を停めた家福がそのまま車内に居残り聴いていたのが、音の声が吹き込まれたカセットテープによる、まさにまったく同じソーニャの第4幕最後の台詞だったことです。

 つまりこの映画は、音(=sound)を失った家福が、「音」ではない「手話」という運動によって戯曲のエンディングをもう一度再演することで、音の死と向き合い、それを乗り越えようとする懸命な姿を描いているわけです*1。そう考えてみると、一度は高槻に与えたワーニャの役を、最後にはやはり自らで演じる決断を下すというプロットもたいへん通過儀礼的であります。

 ワーニャを演じる家福(を演じる西島秀俊)の、頼りなく今にも泣き出してしまいそうな、しかしそれでいてまっすぐに向いた瞳が、ソーニャを演じるユナ(を演じるパク・ユリム)の、2本の腕が繰り広げる熱く雄弁な手話のその一つの挙動も見逃すまいとじっと見つめるこの劇中劇の場面こそ、まさしく劇中の台詞にもあるような「二人の間に何かが起きていた」瞬間に他なりません。微かな換気音と息づかい、手話の中でユナの両腕がぶつかり響く音しか聞こえない、ほとんど無音に近い静寂の中で、ソーニャは視覚を通じてワーニャ(というよりもほとんど家福)にこう訴えかけます。

ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。

 台詞は同時に、昨年から続くこの変わり果てた現実世界を生きる観客の苦境とも深くリンクします。客席でそれを見ていたみさきの姿を真正面から映すのは、まさにこの映画を見ている我々一人ひとりの姿そのものと言ってもいいでしょう。

 

 映画はもう少しだけ続きます。『ワーニャ伯父さん』の公演が終了してしばらくの時が過ぎたと思われる韓国のスーパーマーケットでは、客が、店員が、みなその顔にマスクを装着しています。彼らの世界でもやはり感染症の蔓延は防がれませんでした*2

 そこで買い物を済ませたみさきは、かつて家福が所有していた赤いサーブに乗り込みます。もしかすると二人は今、この韓国の地で共に暮らしているのかもしれませんし、そうでないのかもしれない。緑内障の症状が進んだ家福が、ついに運転できなくなってしまったその車を彼女に譲ったということも想像できます。車の後部座席に家福の姿はなく、そこには代わりに一匹の白い犬が着座していました。ともかくみさきの運転する車はまっすぐと次の目的地へと走り去って行くのです。

 運転手がかわった車の走行を見せることで生まれる余韻(それは若干の寂寥感でもあります)は、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』的だとも思いますが、この映画から感じられる爽快感は決してそれだけではありません。車というパーソナルな空間に入ったらマスクを外すという、みさきが何気なく見せる至極当たり前の所作が、それを見せられるだけで現在を生きる私たちには驚くほどはっきり希望として映るのです*3。さらに、かつて彼女の右頬に付いていた事故の傷(彼女は自らへの戒めとしてこの傷を消すことができないでいました)がすっかり消えているのをこのシーンでは同時に確認することができます。映画に自己を投影した観客、投影しきれなかった観客、その誰しもが「マスクを外す」ということで発生する何層にも敷かれたカタルシスをたしかに感じたはずです。

 

 「列車は必ず次の駅へ」といえば『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の中で語られた重要なテーマです。しかし、赤いサーブで颯爽と走り去ってみせたみさきにだってどうやら同じことが言えそうです。サーブは次の未来へみさきを運びます。そしてもちろん私たちも。私はこの映画にたしかな希望を見出しました。

 

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 映画とはまったく関係ありませんが「マスクを外す」といえばノリアキの去年の曲はよかったですね。

*1:映画では、家福の運転する自動車を真横から撮ったときに見える前輪と後輪が、カセットテープのハブにトランジションするシーンが見受けられました。最初は面白いアイデアだなと思っただけでしたが、よくよく考えてみるとこれは、どれだけ歳月が過ぎても音の記憶を振り切れないでいる家福の弱さを端的に映した演出だったのかもしれません

*2:TVドラマで直截的に新型コロナウイルスを扱ったものには、野木亜紀子が脚本を書いた2020年の『MIU404』がありましたが、映画で見たのはおそらく本作が初めてでした

*3:これは書きながらに確信したことですが、おそらくこの映画の終盤では、みさきという存在を、映画の観客の姿とそっくり重ねられるようにキャラクターメイクしているのではないでしょうか。前述の客席にいた姿と、このマスクを装着している姿、彼女はいくつかのシーンで等身大の観客そのものとしてそこに存在します

「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」を考える。

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(図1)『月刊少女野崎くん』6巻134pより

 椿いづみによる4コマ漫画『月刊少女野崎くん』を読んだことがなくとも、この一コマだけなら知っているという人は多いのではないでしょうか(図1)。

 これはヒロインの千代が、演劇部のお芝居で役をどのように演じればよいか、脚本を読みながら苦悩する鹿島に対して、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と言いのける、4コマ漫画の4コマ目、いわゆるオチにあたるコマになります。続きを読み進めていくと、実は「脚本の人そこまで考えていました」という次のオチが用意されているわけですが、実際に作品を読んだことがない人ではそれすら知らないのがほとんどではないかと思われます。このコマには作品本来の文脈すらも無視して、パンチの効いたセリフ内容であるために、単体でインターネット上を一人歩きしてしまっている悲しい現状があります。それは前のめりになって何か作品を考察、解釈しているインターネットユーザーの話の腰を折る際に、冷や水をぶっかける要領でこの画像を貼付する、言ってしまえばかなり意地悪な使われ方で広く流布されてしまいました。実際、Twitter等のソーシャル・ネットワーキング・サービスでは、ある作品に触れて自身の考察を披露する人はとても多いですし、それに比例してこの画像の汎用性も高くなるわけです。今では一種のネットミームと化していると言ってよいでしょう。

 ここで疑問に感じるのは、このコマで語られるような批判、脚本の人(作者とも言い換えられます)が実際に考えているかどうかというのが作品の考察をする上で重要な要素となるのか、つまり、作者が意識的に作品に取り入れた要素だけが作品解釈の絶対となるかどうかということです。そして、この答えにたどり着くことは、先ほど述べた「脚本の人そこまで考えていました」というあまり知られていないであろう『野崎くん』本来のオチすらもどうでもいいものに変えてしまうことだと思っています。どういうことか見ていきましょう。

 

 まず、いきなりではありますがこの問題に簡潔な一つの解答を与えてくれるアニメーション作品があるので紹介させてください。

 2017年のTVアニメ『リトルウィッチアカデミア』第4話の「ナイトフォール」というお話です(図2)。今だとNetflixで気軽に視聴のできるシリーズですが、以下にこの回のあらすじを、今回不要な要素は省きつつ要約します。

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(図2)『リトルウィッチアカデミア 』第4話「ナイトフォール」より

 

 主要人物の一人であるロッテは、大好きな小説『ナイトフォール』のイベントで作者のアナベル・クレムと邂逅を果たします。魔女だと噂されていた作者のアナベルは実は一人ではなく、一本の万年筆を受け継いできた複数の人物で、今のアナベルはその12代目、ロッテよりも年若い少女でありました*1。自らの作品に対するネット上の心無い批判に疲弊し才能に自信を無くしてしまったアナベルに対して、ロッテは今のアナベルが書く『ナイトフォール』がいかに素晴らしいかということを強い語気で作者本人に解説を試みます。そこでロッテが語る内容は、作者のアナベル自身も気づかないうちに作品に取り入れていた要素も含んでいました。「小説内のこの登場人物が、この場面で右手を使うということにはどれほど重要な意味が込められているか」など、アナベルすらも意識していなかった細部の意匠を作品のファンであるロッテはこれでもかと力説するのです。そして、これを無意識で書けるあなたは天才だ、今の時代にこの物語を書けるのはあなたしかいないとマシンガンのような早口で愛を伝えます。このロッテによる激励が、アナベルにもう一度『ナイトフォール』を書きたいと思わせる自信を与えるというのがこの回のあらすじです。余談になりますが、物語の最後には作品の熱狂的なファンであるロッテとは対照に、主人公・アッコから「ミーハーでもいいじゃん」という台詞が飛び出します。作品を受容する誰しもが、ロッテのように込み入った考察をしたためる必要はもちろんありませんし、受け手のどのような態度も肯定されて然るべきだというフォローがさりげなく織り込まれているところにこの作品が如何にスマートであるかが伺えます。

 

 一話の中で、作り手と受け手との在り方を大変うまくまとめあげている、シリーズでも屈指の傑作回だと思います。この24分間の物語を見たままに受け取られる内容こそが、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」に対する最も適切なアンサーだと言えるのではないでしょうか。

 作者自身が無意識的に取り入れた要素にも関わらず、受け手がそれに触れた瞬間、初めてその要素に意味が付与されるという事象はあらゆる作品で確実に起こり得ます。また、そういった場面できちんとした説明づけ、解釈をしてやることはその作品を受け取る側に与えられた一つの重大な役割だと考えられます。そしてそれは決して作者のために為されるのではなく、作品のために為される行為です。その役割をくさすこと、半笑いで放棄することは残念ながらとても作品に対する誠実な態度だとは言えません。

 

 ここまでの内容と非常に近しいことが実は50年以上も前にすでに提唱されていました。フランスの哲学者であるロラン・バルトの『作者の死』という1967年に発表された小論がそれです。作者の手から離れた作品の解釈は、その受け手に任せられるものであり、作者が作品の絶対的な支配者だという考えは捨てるべきだとする文学論で、作者は作品において唯一の神ではないことをバルトは強調しています。

 さらに、このバルト的な手法で書き進められた、加藤幹郎の『「ブレードランナー」論序説』という有名な映画評論があります(図3)。

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(図3)加藤幹郎著『「ブレードランナー」論序説』(リュミエール叢書)

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 リドリー・スコットによる1982年のSF映画ブレードランナー』の全シーンをその細部にわたり評するという、ある種、異常と言ってもよい趣向が凝らされたこの評論本に対する書評の中で、同じく映画評論家の山根貞男は以下のような好意的なコメントを残しています。

一本の映画をとことん細密に論じることで、一本の映画にはあらゆる映画史と映画理論の達成が流れ込んでいるという事実を明らかにしていく。そんな大胆不敵な試みがスリリングでないわけがなく、映画を見るとは何か、どういう営みなのかを、挑発的に問いかける。見ることに徹した思考であればあるほど、監督の思惑など踏み越えてしまう点が、大胆不敵さをさらに深める。

 

 以上のような例に触れれば「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」が、その批判の前提からして既にズレが生じてしまっていることが分かってもらえたのではないかと思います。当然、「脚本の人そこまで考えてました」がさして重要ではないことも明白でしょう(ギャグ漫画のオチとしては別にそれで十分だとも思いますが)。

 少し話は逸れてしまいますが、現代文の試験問題を作者自身が解答を試みたところ、半分の点数も取れなかったという類のお話がTwitterなどでたまに盛り上がるのが見受けられます。これをお笑い話として済ませる分にはもちろん構いませんが、だからと言って問題の解答自体が間違っているとするのは明らかにおかしい。作者が神様ではないというのは、簡単に言えばつまりそういうことだと考えてください。

 そして、ここで一つ注意しなければならないのは、作品を受け取った側が批評や考察をすること自体はもちろん自由で、先程も述べたようにその行為によって作者すらも気づかなかった意味を作品に付与することは十分にあり得ますが、そこには明らかな受け手の誤読というものも存在します(くどいようですが、作者が意識的に取り入れた内容であるかは、誤読かどうかの判断基準にはなり得ません)。作品を考察するという行為には常にこの、誤読をしてしまうかもしれないという責任が伴うことを忘れてはいけないでしょう。

 

 最後に、この『サイコキラー、再び』というブログは、このエントリーの内容を一つの所信表明にしたいと考えています。これは既に開設から2年が経っているブログの現状を鑑みるに今更感が非常に強く大変恐縮ではあることですが。

 このブログでは既に3つの作品の感想を述べてきました。山田尚子リズと青い鳥』、熊倉献『ブランクスペース』、古川知宏『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』。いずれも素晴らしい作者から生み出された素晴らしい作品に違いありません。しかし、だからと言って作者が描いたことだけを絶対と考えることは一切してきませんでした。そして、これから感想を書くことになる作品に対してもそれは同様です。このエントリーで述べたことは『サイコキラー、再び』で作品を扱う際の一つの大きな指針とさせてください。

*1:個人的にこの部分はラーメンズのコント「小説家らしき存在」を基にしたプロットではないかと感じています

死なない少女(『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想)

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1.

 序盤では一切明かされることがなかった過去の出来事や登場キャラクターたちの馴れ初めを、物語の後半にまるで堰を切ったように立て続けに開示していき、独特なエモーションを獲得することに成功しているのは、この作品の監督である古川知宏の、さらに師匠筋にあたる幾原邦彦の作品によく見られる作劇の手法である。これは幾原の2011年の作品『輪るピングドラム』において特に顕著であるが、古川はこの作品にもスタッフとして参加していた。

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、古川はこの手法でヒロイン・愛城華恋を掘り下げる。TVシリーズでは断片的にしか描かれなかった、彼女が運命の舞台に一緒に立とうと誓った相手で、この作品のもう一人のヒロインである神楽ひかりとの出会いと、彼女たちが互いに運命を共有するに至るその過程が、映画ではより仔細に、回想の体で何度もインサートされる。TVシリーズではいつも天真爛漫で快活な姿を見せた華恋の、言ってしまえばアニメ・ヒロインとしての虚無的な像は、彼女が幼少期より抱えていた迷いや隠し事がつぎつぎと観客に露呈されることによってどんどんリビルドされていく。

 これまで絶対的なヒロインとして君臨し続けた、ある種、超人的なその華恋が、レヴューにおけるまさに"最後のセリフ"として、今まで決して口にすることのなかった「私もひかりに負けたくない」という、あまりにも泥臭いセリフを懸命に振り絞るのは、言うなれば華恋にとっての人間宣言であっただろう。その"最後のセリフ"に呼応するかのように、「運命の舞台のチケット」と称して交換し合った二人の髪留めは弾け飛び、幼い頃に交わした約束を象徴する東京タワーは真っ二つに折れ、ポジション・ゼロに突き刺さる。この作品にとっての推進力であり、二人にとってはもはや呪縛と化していたであろう「運命」と「約束」からの解放を意味するこのシークェンスは、同時に、二人のレヴューを見届けていた舞台少女たちが自らの上掛けを空に放つ所作も手伝い、映画のテーマである「卒業」を強く彷彿とさせる。

 TVシリーズを作り始めた初期の頃から、スタッフ・サイドがこの展開を描くと決めていたとはさすがに思わないが、この「私もひかりに負けたくない」というセリフを発することで愛城華恋というキャラクターは、作品における全ての物語的な伏線を回収することに成功し、ついにキャラクターとしての完成を見ることになるのだから、これは物語のおよそ完璧な幕引きであると言えよう。幾原がTVアニメの前半と後半を使って起こすマジックを、古川は贅沢にもTVアニメと劇場版を使って描き切ってみせた。

 

 が、真の意味で驚かされるのはこれよりさらに後の展開である。

 

2.

 最後のレヴューを終え、歩み寄ってくるひかりに対して華恋は憔悴しながらもこう言って微笑む。

 

「演じ切っちゃった、"レヴュースタァライト"を」

 

 作品内には"スタァライト"という舞台の演目が存在するため、ただの"スタァライト"という言葉が登場キャラクターたちに発せられるのを観客はしばしば耳にする機会があったが、ここで言われる"レヴュースタァライト"はそれとは違う。明らかにこのアニメ作品『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』そのものを指した言葉である。このとき、華恋はあまりにも不自然なカメラ目線で、(それはまるで第四の壁を超え観客に直接語りかけるように)「演じ切っちゃった」と微笑むのだ。

 アニメの登場キャラクターが、そのキャラクター自身を"演じ切っちゃった"と自覚する先にあるのはキャラクターの完全な消滅だろうか。観客が刹那に抱くその疑問に解答を与えるかのようにひかりはこう呼応する。

「じゃあ探しに行きなさいよ。次の舞台、次の役を」

 "愛城華恋"を演じ切ることで空っぽになってしまった華恋に対して、ひかりは「次の役」を探しに行けと助言する。このような常軌を逸したメタ会話の応酬によって理解不能なドライブを突如として見せながら、なんと映画は、ひかりのこの言葉に華恋が力強く「うん」と応じることでエンドロールを迎えてしまうのだ。

 瞬時に連想されるのは、幾度も公開延期を重ねて、3月8日にようやく封切られた庵野秀明監督作品『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』そのラスト・シーンである。

「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と言って、エヴァの存在しない世界へと書き換えた碇シンジが、山口県宇部新川の駅のホームを飛び出し、実写で撮影された現実の街へと繰り出していくその姿は、アニメーション作品であることをメタ的に捉えてみせた直近の好例である。さらに2018年のTVアニメ『SSSS.GRIDMAN』もその最終回では、新条アカネの覚醒を実写で撮影する作劇上重要なメタ演出を見せている。だから、この『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もそれらの類例に従い、エンドロール後に短い実写パートが控えているのではないかと予想し身構えるのだが、映画はそうはならなかった。

 短いエピローグが用意されていることはたしかだ。しかしそれは実写映像にはいっさい頼らず、完全アニメーションによって描かれた、愛城華恋の新たな作品のオーディション・シーンである(華恋はこのエピローグでは一度も顔を見せることはなく、さらには作品内の彼女には似つかわしくない、履き潰したスニーカーと草臥れたリュックサックを持ち、愛城華恋であることを放棄したかのような出立ちでオーディション会場に着座している)。

 これが愛城華恋の声を演じている小山百代本人による、実写撮影のオーディション・シーンであれば、それが映画として鑑賞に耐え得るかは別として、まだ理解はできる。レヴュースタァライトを演じ切っちゃったというのは華恋と同一化した小山自身のセリフとして受け取ることは容易に可能であったからだ。

 しかし繰り返しになるが、映画は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』や『SSSS.GRIDMAN』のラストのような実写を用いた撮影をいっさい行なわずにその結末を描く。これが何を意味するか。愛城華恋は、愛城華恋として『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を卒業し、愛城華恋として作品の外側へと旅立って行ったということだ。

 既存のメタ演出によるアニメーション・キャラクターたちの解放とは趣の異なるこの愛城華恋による『レヴュースタァライト』からの卒業は、この先も我々の意思とは無縁に、華恋はアニメーション間を横断しながら、今、まさにこの時もどこかで生き続けているのだという、未だかつて誰も体感したことのなかったであろう、極めて奇妙な不死の印象を観客に与えることとなる。観客は迂闊にも映画の最後にアニメーション・キャラクターが真の意味で不死身の身体を獲得するその姿を目の当たりにすることとなるのだ。

 

3.

 映画では、電車が非常に象徴的に描かれる。それは卒業を目前に控え、進路に悩む少女たちの人生そのものに重ねられてのものという向きが強いが、映画内で一度死んでしまった愛城華恋を「アタシ再生産」と蘇生させ、マッドマックスよろしく砂塵捲き上がる砂原を渡ってひかりの待つ約束の舞台に向かわせた、いわば現世と冥界をつなぐ乗り物でもある。

 あまりにも複層的なメタ展開と、惜しむらくは本稿でいっさい触れられなかった、豪華絢爛で目眩を起こさせるような舞台少女たちのレヴューの数々によって、大場なな言うところの「なんだか強いお酒を飲んだみたい」に完全に酔わされた私たちが、まさに明日乗り込もうとしているその電車は、映画の中で現世と冥界をいとも容易く連結させたみたいに、ひょっとしたら我々が暮らすこの世界と、アニメーションの世界を見事につないでみせ、そこに愛城華恋たちを乗り込ませるかもしれない。そんな期待の入り混じった恐ろしい錯覚を私たちに与える。

 

 いいや、それは錯覚などではないのかもしれない。この異様な風格を漂わせる傑作映画を体験しておきながら、誰がそれを錯覚だなどと切り捨てることができようか。もはやこの眼前で何が起きようと不思議ではない。今はただ、そう感じる。

 

熊倉献『ブランクスペース』

 熊倉献作品との出会いは2017年1月、当時新刊だった『春と盆暗』が面陳されていた実家近くの書店だったと記憶しています。

 実際に書店でこの単行本を見かけるまで作者である熊倉さんのことは恥ずかしながらまったく知りませんでしたが、無数の道路標識が突き刺さった月面に可愛らしい少女がこちらを向いて佇んでいる真っ黄色でポップな表紙デザインに「これだ」というものを感じその場ですぐ購入をしました。

 

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 実際に読んでみるとやはりその期待は裏切られませんでした。恋愛に主題を置いた(というよりも基本的にはその前段、帯文にある"片思い連作集"とは言い得て妙である)4作+αの短編が収録されている『春と盆暗』ですが、描かれる物語の読み味はどれも一風変わっていました。登場人物たちの脳内で繰り広げられる妄想やたとえ話を突然イメージとして表出させる熊倉さんの漫画的演出力は当時非常に新鮮でしたし、どの短編も色恋を描いてはいるけれど、人物の心情にフォーカスして恋愛ドラマの山場を作るわけでない語り口なので、ドラスティックになりすぎない独特の進行もしみじみいいなと思える感動がありました。登場人物たちの会話から生まれる小気味のいいギャグもどれもとても愛おしかったです。そういうわけでこの短編集『春と盆暗』はおもしろい単巻完結の漫画という読みやすさからその後もたびたび本棚から引っ張り出して読み返す大切な一作となっていました。

 

 その熊倉さんが昨年の夏、『コミプレ』というweb媒体で新作を発表されました。それがこの1月に単行本の第一巻が発売することになる『ブランクスペース』です。

 

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 『春と盆暗』とは打って変わってこちらは続きもので、ショーコとスイという二人の少女が繰り広げる学園を舞台にしたSF要素のある青春作品となります。

 ショーコはある雨の日の帰り道、自分の頭の中に思い浮かべたものを透明な物体として作り出すことができるクラスメイトのスイと運命的な出会いを果たします。人気のない私有地で透明な傘を差しながら立ち尽くしていたスイと、その場をぐうぜん通りかかったショーコの出会いから二人の"空白(そして文学)"をめぐる物語はスタートします。

 公開された第一話「緑茶も紅茶も」を読んだときから、かわいらしい登場人物たちによる会話劇と演出にこれは他でもないあの『春と盆暗』を描いた熊倉献の最新作だ、と興奮を覚えました。それだけでなく、二人が次の学年に進級する第三話「夏そして春」から物語は大きく予想外な展開をし出し、そのストーリーテリングの巧みさからさらに引き込まれることになりました。

 

 前述の、たとえ話から生まれたイメージが次コマで表出するという、熊倉さんのすぐれた漫画演出は今作でも健在で、ショーコが頭の中に思い描くダイナミックな妄想(たとえばショーコは失恋を経験したショックから、大きな星が降ってきてこの学校をペシャンコに潰してしまえばいいと願いますが、次のコマでは実際に巨大な星が校舎を破壊しているポップなイメージが挿入されます)が随所に描き表されるのは非常に印象的ですし、視覚的に十分楽しめます。

 だからこそスイが持つ、透明な物体を作り出すことができる特殊能力はどこか熊倉さんの作家性に対してメタ的な構造を取っているような印象さえ受けました。妄想としての見せ場を作らなくても、スイは思い描いたものをその場に作り出し、漫画内ではそれを現実のものとして表出できるのですから。スイが持つこの特殊能力の構造は、第四話「多足類」で全校を巻き込んで引き起こされる体育館での事件をより恐怖的に見せる要因になっていると感じました。読者にとって、登場人物たちのただの想像の上でしか起こらなかった漫画としての大味なスペクタクルが、このシーンでは誰にとっても感知できる実際の悲劇として立ち現れてしまうことの恐ろしさがそれまでの演出との対比でハッキリと際立つからです。少し話は逸れますが、対比といえばスイが時おり読者に見せる暴力性は、文学を愛する引っ込み思案の彼女との対比として抜群に効いており、この見せ方によってサスペンスが増幅しています。また、第五話で巨大な斧が街に降ってくるイメージにショーコ同様読者が心底恐怖するのは、第一話のポップな星が校舎を潰すイメージと見事な対比になっているからです。

 

 非常に引き込まれる展開で、この一巻の終わりの時点で物語はすでにかなり壮大なものになっていますが、短編の『春と盆暗』を読んだときに感じた熊倉さんの作風から、まさかここまで遠いところまで連れてきてもらえる読書体験になるとは正直思っていなかったです。これは本当に嬉しい誤算でした。また、一年生時にはクラスメイトであったショーコとスイが二年生で違うクラスに割かれてしまったことを読者に伝える第三話のシーンは非常に印象的でした。校舎中庭のベンチに座ってお昼ご飯を食べている二人の様子を、足元を定点カメラで捉えて、同じコマ割りでいくつか見せ続けるのですが、このシーンでは二人の服装や、地面に転がる落ち葉、会話の内容で季節の巡りをうまく表現しています。これも『春と盆暗』を読んでいたときには気づけなかったタイプの巧みな漫画演出だと感じました。また、第五話「文学」でショーコが誤った道へ進もうとしているスイのために涙を流して説得を試みるたいへん胸が熱くなるシーンがありますが、おそらく『春と盆暗』には登場人物が落涙するシーンは無かったのではないでしょうか。

 

 真っ黄色の『春と盆暗』の装幀から一転、『ブランクスペース』第一巻はカバーから帯まで白を基調とした、まるで空白が支配しているとも言える簡素なデザインです。本を開くと一ページには左上に小さく書名と作者名が書かれているだけでこれもまたほぼ真っ白。さらにコミックスとしては珍しくノンブルの隣に話タイトルが表示されている、文学作品をリスペクトしているかのような本文デザインでなんとも格好よく、この作品には紙の本として所有する喜びを強く感じました。

 

 物語がこの先どのように展開するのか、この第一巻に収録されている五話分と、先日『コミプレ』に掲載された最新の第六話「比喩・変身・鉄」を読んでも正直あまり予想はできません。ただ、そこは熊倉さんですので安心して(そしてその展開に胸を熱くしながら)続きを見守っていこうと思えます。ショーコとスイの青春物語がどのような結末を迎えるのかが非常に楽しみです。『ブランクスペース』はまだ始まったばかりですから、今から読んでも十分に間に合います。この単行本を読んでしまえば公開中の最新話に追いつくことができます。この記事を読んで興味が湧いた方がいたら是非読んでみてください。

青春時代の通過儀礼 ( 『リズと青い鳥』 感想 )

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 2010年、『映画 けいおん!』で劇場監督としてデビューを果たした山田尚子は一昨年、ついに興行収入20億円の大台を超えるヒット作『映画 聲の形』を生み出した。

 耳に障害を持つ少女と、かつて少女を虐めていた少年とのやり直しを描いたこの青春物語は、第一級のエンターテインメント作品としてアニメファンだけに留まらない多くの観客に温かく迎え入れられることとなった。その山田の『聲の形』以来となる新作が、TVシリーズ響け!ユーフォニアム』のスピンオフ作品『リズと青い鳥』である。

 ある者は、「『聲の形』の監督とあれば、きっとこれはまたおもしろい映画になるぞ」と思ったに違いない。

 ある者は、「山田が『ユーフォ』の新作を撮るなんて、これは期待ができそうだ」と思ったに違いない。

  しかし劇場を訪れたそれら全ての観客は映画が開始した僅か10分で一人残らず悟ることになるだろう。

「ああ、これは私の知ってる『聲の形』なんかではない。これは私の知ってる『ユーフォ』なんかではない。私がこれから目撃するこの映画は、今までに私が見てきた何ともまったく違う」と。

 

 開始10分でこの映画には何が起こったのか。

 

 何も起こらなかったのである。

 

 ただ、日曜日の朝に校舎前の石段で待ち合わせた吹奏楽部員である二人の高校生少女が、会話などほとんど無しに学校の中へと吸い込まれるようなその歩行を見せるのみである。

 二人は決して並列することはなく、ある一定の距離を保ったまま一人が一人を追いかける形で直列になって歩行をする。足並みはばらばらで、二人の靴が鳴らす足音は一瞬たりとも綺麗に揃うことがない。しかし、この表面的なぎこちなさから観客が二人の不和を予感するのも束の間、後ろを歩くロングヘアーの少女は自分の眼前で溌剌と揺れるポニーテールを見つめ、中学時代に見た同じ光景のことを輝かしいものとして回想し始める。どうやら二人はもう何年もこの隊形で歩いているらしい。友達同士ともすれば、会話もない、並列にもならないことがすこしばかり奇妙に映るこのシーンも、彼女らの平然とした表情を見れば、それがいつも通りの日常であることは容易に想像されるのだ(だが、やはりそれは傍目から見れば何か重大な欠陥を擁したとても脆い関係であることは一目瞭然である)。

 そして観客はここで、赤面しながらもキラキラと目を輝かせるロングヘアーの少女の顔つきからある重要な事実を認めることになる。この少女は、自分の前を歩くもう一人の少女に恋をしているのだと。そしてそれはおそらく、胸に秘められた淡い片想いなのだろうと。

 二人は目的地である音楽室にたどり着き、その鍵を開ける。このとき二人が一瞬だけ覗かせるうつろな表情の意味など、もちろんこの時点では誰にも分かるわけがない。

 かくして、少女たちは時の流れからも隔絶された学校空間の中にまんまと閉じ込められた。この映画ではラストシーンまで意図的に、一度たりとも時計の針を映したりはしない。一度たりとも学校外の風景を映したりはしない。全編を通して、学校という小世界に生きる少女たちの微妙に揺れ動く関係性に、どこか非日常的な浮遊感を携えながら、カメラはそっと差し向けられ続ける。

 ここで描かれる学校というロケーションが、愛を深めるための透き通った宮殿を意味するものか、それとも、不安や迷いから飛び立てないでいる少女たちの鳥かごを意味するものか、それすらも判然としないまま物語は幕を開けてしまうのである。

 

 この隔絶された空間の中で、二人はその青春時代を終わらせる大きな通過儀礼に直面することとなる。つまりそれは相手と自分の間にある決定的な違いを受け入れることであり、愛ゆえの決断を下すことである。二人の前には、それが自分たちの出場する最後のコンクールの自由曲「リズと青い鳥」という形で現れる。

 外国の童話をもとにして作られたこの曲の第三楽章「愛ゆえの決断」には二人の担当楽器であるオーボエとフルートの掛け合うソロパートが用意されているが、これが何度練習で音を合わせてみても、いつもどこかもやもやとする演奏になってしまう。最初のうちに感じていた演奏への違和はまだ笑ってやり過ごせるものだったが、他の吹奏楽部員や指導員の教師からそれを指摘され始めるといよいよ二人の間には看過できない揺らぎが生じる。二人の関係に影が差すと、それまで校舎の外を飛んでいた青い小鳥は一切の姿を消し、代わりに巨大な猛禽類が夕暮れ時の空を滑空するのである。

 

 作中で何度か演奏シーンのある第三楽章「愛ゆえの決断」であるが、観客はとうとう二人の美しい掛け合いを最後まで一度も観ることができないまま映画は終わりを迎えてしまう。ただ、最後の演奏では、それまで他部員から窮屈な演奏だと指摘されていた、ロングヘアーの少女が奏でるオーボエがそれまでとは一線を画した格別なプレイであることが視覚的、聴覚的にはっきりと説得力を持って提示されることとなる。フルートを奏でるもう一人の少女さえそのレベルの高さには思わず動揺し、演奏することへの冷静さを欠き、ついには感極まって涙を流してしまう程のものである。音楽的な才能を持ち合わせていたのは、オーボエの少女であり、フルートの少女ではなかった。音楽に対する前向きな熱い思いが作中で絶えず強調され続けたのは後者であるのにも関わらず、だ。オーボエの少女は、大好きなフルートの少女が自らの演奏に悔しさの涙を流したことにおそらく気づいていただろう。だからこそ、それまでの演奏では自らのオーボエを抑制するしかなかったのだから。

 才能がないということはつらい。しかし、才能があるということもそれと同様のつらさを抱えるのかもしれない。

 それでもオーボエの少女は、自身の持てる最大限の音を鳴らし続けずにはいられなかった。彼女は童話「リズと青い鳥」で描かれる、空高く飛ぶ青い鳥の気持ちに触れてしまったからである。

 

 繰り返しになるが、二人にとって青春時代を終わらせる通過儀礼とは、相手と自分の間にある決定的な違いを受け入れることであり、愛ゆえの決断を下すことである。フルートの少女は、オーボエの少女と自分の間にある決定的な才能の差を認め、普通大学への進学を決断することになる。オーボエの少女は、常に目の前を歩き自らを導いてくれた大好きな少女と道を分かち、愛を証明するように音楽大学へ進学することを決断する。左と右へ、一人は楽器を持ち続け、一人は楽器をペンに持ち替えることを選んだ。

 この結末に寂寥感を覚えるのは見当違いなのかもしれない。これはそれまで「嬉しい」も「大好き」も全ての言葉がすれ違い続けた二人がとうとう抱擁を交わすのに成功し、胸中の言葉をそれぞれに与え合ったことに起因する結末だからである。自身の長い髪を握る仕草で、発するべき感情や言葉を抑え込んでいたロングヘアーの少女が、相手に全体重を委ねるようにして自らの身体を捧げた抱擁の瞬間、あのシーンに同居した美しさと残酷さだけはどうしたって筆舌には尽くしがたいものがある。茜射す生物学室の隅っこに二人の女子生徒。この映画的な山場でさえカメラは騒ぎ立てるようなことをせず、ただひっそりと二人のことを映しこんでいる。

 

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 この映画では、童話「リズと青い鳥」の物語になぞらえて、二人の少女のうち、どちらが独りぼっちのリズで、どちらが飛ぶための美しい羽根を持つ青い鳥かということが盛んに話題に上るのだが、それは根本的に間違っている議論であっただろう。映画は、どちらの少女も青い鳥であって、それぞれがそれぞれの空へ飛び立っていけることをはっきりと描いている。その証左として、映画の終盤、二羽の青い鳥が空高く飛び立っていく映像が15秒以上にもわたり挿入されていたことを観客の誰一人として見逃さなかったはずだ。もちろん、その二羽の青い鳥とは二人の少女のことをそのままに写していたことは言うまでもない。

 そして、少女たちはとうとう二人揃って校舎外へと足を踏み出した。この学校という鳥かご(あるいはそれは青春時代のシェルターであり、時が止まった宮殿だったのかもしれない)から二人して飛び立っていくのだ。この時、先に門を抜けるのがそれまで後ろを歩き続けていたロングヘアーの少女であることを見逃してはならない。二人の歩く距離感にもそれまでのよそよそしさはほとんどなく、一瞬ではあるが足音が綺麗にシンクロしてみせたりする。今や少女たちの関係は対等なものとなった。残酷なまでに映画を支配していた二人の間のディスコミュニケーションは今やはっきり融解したと言ってもいい。外面的には、何の事件が起こったのかもさっぱり分からないような、動的なシーンが希薄だったこの物語ではあるが、彼女たちの内に宿る気持ちは確かに始めの頃とは何もかもが違っている。

 

 これは青春時代を生きる少女たちの微妙な、しかし確かな成長を静謐に描き切った、他に類を見ない大傑作である。間違いないだろう。

 

 

 青春時代はやがて終わりを迎える。それまで当たり前だった日常に帰れなくなる瞬間がいつか必ずやって来る。比重の置き方さえ違ったものの、山田の作品ではこれまで何度となく描かれてきた主題の一つである。

 もしかしたら彼女たちは、不意に後輩部員から手渡されたゆで卵を、退屈な数学の授業で聞かされた素(そ)の話を、向かいの教室からフルートを介して送られた微かな反射光を、悔しさの涙で滲んだ青いスカートを、さらには夕暮れの生物学室で抱きしめ合ったあの時間さえもいつかは忘れてしまうのかもしれない。しかしそれでいい。

 幸い、この物語は一本の映画になった。不器用にも一瞬の触れ合いを求め続けた二人の恋の物語はフィルムという形でこれからも永遠に守られ続ける。きっと誰も二人の物語を忘れたりなんかはしない。

 

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