「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」を考える。

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(図1)『月刊少女野崎くん』6巻134pより

 椿いづみによる4コマ漫画『月刊少女野崎くん』を読んだことがなくとも、この一コマだけなら知っているという人は多いのではないでしょうか(図1)。

 これはヒロインの千代が、演劇部のお芝居で役をどのように演じればよいか、脚本を読みながら苦悩する鹿島に対して、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」と言いのける、4コマ漫画の4コマ目、いわゆるオチにあたるコマになります。続きを読み進めていくと、実は「脚本の人そこまで考えていました」という次のオチが用意されているわけですが、実際に作品を読んだことがない人ではそれすら知らないのがほとんどではないかと思われます。このコマには作品本来の文脈すらも無視して、パンチの効いたセリフ内容であるために、単体でインターネット上を一人歩きしてしまっている悲しい現状があります。それは前のめりになって何か作品を考察、解釈しているインターネットユーザーの話の腰を折る際に、冷や水をぶっかける要領でこの画像を貼付する、言ってしまえばかなり意地悪な使われ方で広く流布されてしまいました。実際、Twitter等のソーシャル・ネットワーキング・サービスでは、ある作品に触れて自身の考察を披露する人はとても多いですし、それに比例してこの画像の汎用性も高くなるわけです。今では一種のネットミームと化していると言ってよいでしょう。

 ここで疑問に感じるのは、このコマで語られるような批判、脚本の人(作者とも言い換えられます)が実際に考えているかどうかというのが作品の考察をする上で重要な要素となるのか、つまり、作者が意識的に作品に取り入れた要素だけが作品解釈の絶対となるかどうかということです。そして、この答えにたどり着くことは、先ほど述べた「脚本の人そこまで考えていました」というあまり知られていないであろう『野崎くん』本来のオチすらもどうでもいいものに変えてしまうことだと思っています。どういうことか見ていきましょう。

 

 まず、いきなりではありますがこの問題に簡潔な一つの解答を与えてくれるアニメーション作品があるので紹介させてください。

 2017年のTVアニメ『リトルウィッチアカデミア』第4話の「ナイトフォール」というお話です(図2)。今だとNetflixで気軽に視聴のできるシリーズですが、以下にこの回のあらすじを、今回不要な要素は省きつつ要約します。

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(図2)『リトルウィッチアカデミア 』第4話「ナイトフォール」より

 

 主要人物の一人であるロッテは、大好きな小説『ナイトフォール』のイベントで作者のアナベル・クレムと邂逅を果たします。魔女だと噂されていた作者のアナベルは実は一人ではなく、一本の万年筆を受け継いできた複数の人物で、今のアナベルはその12代目、ロッテよりも年若い少女でありました*1。自らの作品に対するネット上の心無い批判に疲弊し才能に自信を無くしてしまったアナベルに対して、ロッテは今のアナベルが書く『ナイトフォール』がいかに素晴らしいかということを強い語気で作者本人に解説を試みます。そこでロッテが語る内容は、作者のアナベル自身も気づかないうちに作品に取り入れていた要素も含んでいました。「小説内のこの登場人物が、この場面で右手を使うということにはどれほど重要な意味が込められているか」など、アナベルすらも意識していなかった細部の意匠を作品のファンであるロッテはこれでもかと力説するのです。そして、これを無意識で書けるあなたは天才だ、今の時代にこの物語を書けるのはあなたしかいないとマシンガンのような早口で愛を伝えます。このロッテによる激励が、アナベルにもう一度『ナイトフォール』を書きたいと思わせる自信を与えるというのがこの回のあらすじです。余談になりますが、物語の最後には作品の熱狂的なファンであるロッテとは対照に、主人公・アッコから「ミーハーでもいいじゃん」という台詞が飛び出します。作品を受容する誰しもが、ロッテのように込み入った考察をしたためる必要はもちろんありませんし、受け手のどのような態度も肯定されて然るべきだというフォローがさりげなく織り込まれているところにこの作品が如何にスマートであるかが伺えます。

 

 一話の中で、作り手と受け手との在り方を大変うまくまとめあげている、シリーズでも屈指の傑作回だと思います。この24分間の物語を見たままに受け取られる内容こそが、「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」に対する最も適切なアンサーだと言えるのではないでしょうか。

 作者自身が無意識的に取り入れた要素にも関わらず、受け手がそれに触れた瞬間、初めてその要素に意味が付与されるという事象はあらゆる作品で確実に起こり得ます。また、そういった場面できちんとした説明づけ、解釈をしてやることはその作品を受け取る側に与えられた一つの重大な役割だと考えられます。そしてそれは決して作者のために為されるのではなく、作品のために為される行為です。その役割をくさすこと、半笑いで放棄することは残念ながらとても作品に対する誠実な態度だとは言えません。

 

 ここまでの内容と非常に近しいことが実は50年以上も前にすでに提唱されていました。フランスの哲学者であるロラン・バルトの『作者の死』という1967年に発表された小論がそれです。作者の手から離れた作品の解釈は、その受け手に任せられるものであり、作者が作品の絶対的な支配者だという考えは捨てるべきだとする文学論で、作者は作品において唯一の神ではないことをバルトは強調しています。

 さらに、このバルト的な手法で書き進められた、加藤幹郎の『「ブレードランナー」論序説』という有名な映画評論があります(図3)。

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(図3)加藤幹郎著『「ブレードランナー」論序説』(リュミエール叢書)

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 リドリー・スコットによる1982年のSF映画ブレードランナー』の全シーンをその細部にわたり評するという、ある種、異常と言ってもよい趣向が凝らされたこの評論本に対する書評の中で、同じく映画評論家の山根貞男は以下のような好意的なコメントを残しています。

一本の映画をとことん細密に論じることで、一本の映画にはあらゆる映画史と映画理論の達成が流れ込んでいるという事実を明らかにしていく。そんな大胆不敵な試みがスリリングでないわけがなく、映画を見るとは何か、どういう営みなのかを、挑発的に問いかける。見ることに徹した思考であればあるほど、監督の思惑など踏み越えてしまう点が、大胆不敵さをさらに深める。

 

 以上のような例に触れれば「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」が、その批判の前提からして既にズレが生じてしまっていることが分かってもらえたのではないかと思います。当然、「脚本の人そこまで考えてました」がさして重要ではないことも明白でしょう(ギャグ漫画のオチとしては別にそれで十分だとも思いますが)。

 少し話は逸れてしまいますが、現代文の試験問題を作者自身が解答を試みたところ、半分の点数も取れなかったという類のお話がTwitterなどでたまに盛り上がるのが見受けられます。これをお笑い話として済ませる分にはもちろん構いませんが、だからと言って問題の解答自体が間違っているとするのは明らかにおかしい。作者が神様ではないというのは、簡単に言えばつまりそういうことだと考えてください。

 しかし、ここで一つ注意しなければならないのは、作品を受け取った側が批評や考察をすること自体はもちろん自由で、先程も述べたようにその行為によって作者すらも気づかなかった意味を作品に付与することは十分にあり得ますが、そこには明らかな受け手の誤読というものも存在します(くどいようですが、作者が意識的に取り入れた内容であるかは、誤読かどうかの判断基準にはなり得ません)。作品を考察するという行為には常にこの、誤読をしてしまうかもしれないという責任が伴うことを忘れてはいけないでしょう。

 

 最後に、この『サイコキラー、再び』というブログは、このエントリーの内容を一つの所信表明にしたいと考えています。これは既に開設から2年が経っているブログの現状を鑑みるに今更感が非常に強く大変恐縮ではあることですが。

 このブログでは既に3つの作品の感想を述べてきました。山田尚子リズと青い鳥』、熊倉献『ブランクスペース』、古川知宏『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』。いずれも素晴らしい作者から生み出された素晴らしい作品に違いありません。しかし、だからと言って作者が描いたことだけを絶対と考えることは一切してきませんでした。そして、これから感想を書くことになる作品に対してもそれは同様です。このエントリーで述べたことは『サイコキラー、再び』で作品を扱う際の一つの大きな指針とさせてください。

*1:個人的にこの部分はラーメンズのコント「小説家らしき存在」を基にしたプロットではないかと感じています