空白を想像すること (『ブランクスペース』感想)

 熊倉献作品との出会いは2017年1月、当時新刊だった『春と盆暗』が面陳されていた実家近くの書店だったと記憶しています。

 実際に書店でこの単行本を見かけるまで作者である熊倉さんのことは恥ずかしながらまったく知りませんでしたが、無数の道路標識が突き刺さった月面に可愛らしい少女がこちらを向いて佇んでいる真っ黄色でポップな表紙デザインに「これだ」というものを感じその場ですぐ購入をしました。

 

f:id:prhp:20210117193539j:image

 

 実際に読んでみるとやはりその期待は裏切られませんでした。恋愛に主題を置いた(というよりも基本的にはその前段、帯文にある"片思い連作集"とは言い得て妙である)4作+αの短編が収録されている『春と盆暗』ですが、描かれる物語の読み味はどれも一風変わっていました。登場人物たちの脳内で繰り広げられる妄想やたとえ話を突然イメージとして表出させる熊倉さんの漫画的演出力は当時非常に新鮮でしたし、どの短編も色恋を描いてはいるけれど、人物の心情にフォーカスして恋愛ドラマの山場を作るわけでない語り口なので、ドラスティックになりすぎない独特の進行もしみじみいいなと思える感動がありました。登場人物たちの会話から生まれる小気味のいいギャグもどれもとても愛おしかったです。そういうわけでこの短編集『春と盆暗』はおもしろい単巻完結の漫画という読みやすさからその後もたびたび本棚から引っ張り出して読み返す大切な一作となっていました。

 

 その熊倉さんが昨年の夏、『コミプレ』というweb媒体で新作を発表されました。それがこの1月に単行本の第一巻が発売することになる『ブランクスペース』です。

 

f:id:prhp:20210118100404j:image

 

 『春と盆暗』とは打って変わってこちらは続きもので、ショーコとスイという二人の少女が繰り広げる学園を舞台にしたSF要素のある青春作品となります。

 ショーコはある雨の日の帰り道、自分の頭の中に思い浮かべたものを透明な物体として作り出すことができるクラスメイトのスイと運命的な出会いを果たします。人気のない私有地で透明な傘を差しながら立ち尽くしていたスイと、その場をぐうぜん通りかかったショーコの出会いから二人の"空白(そして文学)"をめぐる物語はスタートします。

 公開された第一話「緑茶も紅茶も」を読んだときから、かわいらしい登場人物たちによる会話劇と演出にこれは他でもないあの『春と盆暗』を描いた熊倉献の最新作だ、と興奮を覚えました。それだけでなく、二人が次の学年に進級する第三話「夏そして春」から物語は大きく予想外な展開をし出し、そのストーリーテリングの巧みさからさらに引き込まれることになりました。

 

 前述の、たとえ話から生まれたイメージが次コマで表出するという、熊倉さんのすぐれた漫画演出は今作でも健在で、ショーコが頭の中に思い描くダイナミックな妄想(たとえばショーコは失恋を経験したショックから、大きな星が降ってきてこの学校をペシャンコに潰してしまえばいいと願いますが、次のコマでは実際に巨大な星が校舎を破壊しているポップなイメージが挿入されます)が随所に描き表されるのは非常に印象的ですし、視覚的に十分楽しめます。

 だからこそスイが持つ、透明な物体を作り出すことができる特殊能力はどこか熊倉さんの作家性に対してメタ的な構造を取っているような印象さえ受けました。妄想としての見せ場を作らなくても、スイは思い描いたものをその場に作り出し、漫画内ではそれを現実のものとして表出できるのですから。スイが持つこの特殊能力の構造は、第四話「多足類」で全校を巻き込んで引き起こされる体育館での事件をより恐怖的に見せる要因になっていると感じました。読者にとって、登場人物たちのただの想像の上でしか起こらなかった漫画としての大味なスペクタクルが、このシーンでは誰にとっても感知できる実際の悲劇として立ち現れてしまうことの恐ろしさがそれまでの演出との対比でハッキリと際立つからです。少し話は逸れますが、対比といえばスイが時おり読者に見せる暴力性は、文学を愛する引っ込み思案の彼女との対比として抜群に効いており、この見せ方によってサスペンスが増幅しています。また、第五話で巨大な斧が街に降ってくるイメージにショーコ同様読者が心底恐怖するのは、第一話のポップな星が校舎を潰すイメージと見事な対比になっているからです。

 

 非常に引き込まれる展開で、この一巻の終わりの時点で物語はすでにかなり壮大なものになっていますが、短編の『春と盆暗』を読んだときに感じた熊倉さんの作風から、まさかここまで遠いところまで連れてきてもらえる読書体験になるとは正直思っていなかったです。これは本当に嬉しい誤算でした。また、一年生時にはクラスメイトであったショーコとスイが二年生で違うクラスに割かれてしまったことを読者に伝える第三話のシーンは非常に印象的でした。校舎中庭のベンチに座ってお昼ご飯を食べている二人の様子を、足元を定点カメラで捉えて、同じコマ割りでいくつか見せ続けるのですが、このシーンでは二人の服装や、地面に転がる落ち葉、会話の内容で季節の巡りをうまく表現しています。これも『春と盆暗』を読んでいたときには気づけなかったタイプの巧みな漫画演出だと感じました。また、第五話「文学」でショーコが誤った道へ進もうとしているスイのために涙を流して説得を試みるたいへん胸が熱くなるシーンがありますが、おそらく『春と盆暗』には登場人物が落涙するシーンは無かったのではないでしょうか。

 

 真っ黄色の『春と盆暗』の装幀から一転、『ブランクスペース』第一巻はカバーから帯まで白を基調とした、まるで空白が支配しているとも言える簡素なデザインです。本を開くと一ページには左上に小さく書名と作者名が書かれているだけでこれもまたほぼ真っ白。さらにコミックスとしては珍しくノンブルの隣に話タイトルが表示されている、文学作品をリスペクトしているかのような本文デザインでなんとも格好よく、この作品には紙の本として所有する喜びを強く感じました。

 

 物語がこの先どのように展開するのか、この第一巻に収録されている五話分と、先日『コミプレ』に掲載された最新の第六話「比喩・変身・鉄」を読んでも正直あまり予想はできません。ただ、そこは熊倉さんですので安心して(そしてその展開に胸を熱くしながら)続きを見守っていこうと思えます。ショーコとスイの青春物語がどのような結末を迎えるのかが非常に楽しみです。『ブランクスペース』はまだ始まったばかりですから、今から読んでも十分に間に合います。この単行本を読んでしまえば公開中の最新話に追いつくことができます。この記事を読んで興味が湧いた方がいたら是非読んでみてください。