青春時代の通過儀礼 ( 『リズと青い鳥』 感想 )

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 2010年、『映画 けいおん!』で劇場監督としてデビューを果たした山田尚子は一昨年、ついに興行収入20億円の大台を超えるヒット作『映画 聲の形』を生み出した。

 耳に障害を持つ少女と、かつて少女を虐めていた少年とのやり直しを描いたこの青春物語は、第一級のエンターテインメント作品としてアニメファンだけに留まらない多くの観客に温かく迎え入れられることとなった。その山田の『聲の形』以来となる新作が、TVシリーズ響け!ユーフォニアム』のスピンオフ作品『リズと青い鳥』である。

 ある者は、「『聲の形』の監督とあれば、きっとこれはまたおもしろい映画になるぞ」と思ったに違いない。

 ある者は、「山田が『ユーフォ』の新作を撮るなんて、これは期待ができそうだ」と思ったに違いない。

  しかし劇場を訪れたそれら全ての観客は映画が開始した僅か10分で一人残らず悟ることになるだろう。

「ああ、これは私の知ってる『聲の形』なんかではない。これは私の知ってる『ユーフォ』なんかではない。私がこれから目撃するこの映画は、今までに私が見てきた何ともまったく違う」と。

 

 開始10分でこの映画には何が起こったのか。

 

 何も起こらなかったのである。

 

 ただ、日曜日の朝に校舎前の石段で待ち合わせた吹奏楽部員である二人の高校生少女が、会話などほとんど無しに学校の中へと吸い込まれるようなその歩行を見せるのみである。

 二人は決して並列することはなく、ある一定の距離を保ったまま一人が一人を追いかける形で直列になって歩行をする。足並みはばらばらで、二人の靴が鳴らす足音は一瞬たりとも綺麗に揃うことがない。しかし、この表面的なぎこちなさから観客が二人の不和を予感するのも束の間、後ろを歩くロングヘアーの少女は自分の眼前で溌剌と揺れるポニーテールを見つめ、中学時代に見た同じ光景のことを輝かしいものとして回想し始める。どうやら二人はもう何年もこの隊形で歩いているらしい。友達同士ともすれば、会話もない、並列にもならないことがすこしばかり奇妙に映るこのシーンも、彼女らの平然とした表情を見れば、それがいつも通りの日常であることは容易に想像されるのだ(だが、やはりそれは傍目から見れば何か重大な欠陥を擁したとても脆い関係であることは一目瞭然である)。

 そして観客はここで、赤面しながらもキラキラと目を輝かせるロングヘアーの少女の顔つきからある重要な事実を認めることになる。この少女は、自分の前を歩くもう一人の少女に恋をしているのだと。そしてそれはおそらく、胸に秘められた淡い片想いなのだろうと。

 二人は目的地である音楽室にたどり着き、その鍵を開ける。このとき二人が一瞬だけ覗かせるうつろな表情の意味など、もちろんこの時点では誰にも分かるわけがない。

 かくして、少女たちは時の流れからも隔絶された学校空間の中にまんまと閉じ込められた。この映画ではラストシーンまで意図的に、一度たりとも時計の針を映したりはしない。一度たりとも学校外の風景を映したりはしない。全編を通して、学校という小世界に生きる少女たちの微妙に揺れ動く関係性に、どこか非日常的な浮遊感を携えながら、カメラはそっと差し向けられ続ける。

 ここで描かれる学校というロケーションが、愛を深めるための透き通った宮殿を意味するものか、それとも、不安や迷いから飛び立てないでいる少女たちの鳥かごを意味するものか、それすらも判然としないまま物語は幕を開けてしまうのである。

 

 この隔絶された空間の中で、二人はその青春時代を終わらせる大きな通過儀礼に直面することとなる。つまりそれは相手と自分の間にある決定的な違いを受け入れることであり、愛ゆえの決断を下すことである。二人の前には、それが自分たちの出場する最後のコンクールの自由曲「リズと青い鳥」という形で現れる。

 外国の童話をもとにして作られたこの曲の第三楽章「愛ゆえの決断」には二人の担当楽器であるオーボエとフルートの掛け合うソロパートが用意されているが、これが何度練習で音を合わせてみても、いつもどこかもやもやとする演奏になってしまう。最初のうちに感じていた演奏への違和はまだ笑ってやり過ごせるものだったが、他の吹奏楽部員や指導員の教師からそれを指摘され始めるといよいよ二人の間には看過できない揺らぎが生じる。二人の関係に影が差すと、それまで校舎の外を飛んでいた青い小鳥は一切の姿を消し、代わりに巨大な猛禽類が夕暮れ時の空を滑空するのである。

 

 作中で何度か演奏シーンのある第三楽章「愛ゆえの決断」であるが、観客はとうとう二人の美しい掛け合いを最後まで一度も観ることができないまま映画は終わりを迎えてしまう。ただ、最後の演奏では、それまで他部員から窮屈な演奏だと指摘されていた、ロングヘアーの少女が奏でるオーボエがそれまでとは一線を画した格別なプレイであることが視覚的、聴覚的にはっきりと説得力を持って提示されることとなる。フルートを奏でるもう一人の少女さえそのレベルの高さには思わず動揺し、演奏することへの冷静さを欠き、ついには感極まって涙を流してしまう程のものである。音楽的な才能を持ち合わせていたのは、オーボエの少女であり、フルートの少女ではなかった。音楽に対する前向きな熱い思いが作中で絶えず強調され続けたのは後者であるのにも関わらず、だ。オーボエの少女は、大好きなフルートの少女が自らの演奏に悔しさの涙を流したことにおそらく気づいていただろう。だからこそ、それまでの演奏では自らのオーボエを抑制するしかなかったのだから。

 才能がないということはつらい。しかし、才能があるということもそれと同様のつらさを抱えるのかもしれない。

 それでもオーボエの少女は、自身の持てる最大限の音を鳴らし続けずにはいられなかった。彼女は童話「リズと青い鳥」で描かれる、空高く飛ぶ青い鳥の気持ちに触れてしまったからである。

 

 繰り返しになるが、二人にとって青春時代を終わらせる通過儀礼とは、相手と自分の間にある決定的な違いを受け入れることであり、愛ゆえの決断を下すことである。フルートの少女は、オーボエの少女と自分の間にある決定的な才能の差を認め、普通大学への進学を決断することになる。オーボエの少女は、常に目の前を歩き自らを導いてくれた大好きな少女と道を分かち、愛を証明するように音楽大学へ進学することを決断する。左と右へ、一人は楽器を持ち続け、一人は楽器をペンに持ち替えることを選んだ。

 この結末に寂寥感を覚えるのは見当違いなのかもしれない。これはそれまで「嬉しい」も「大好き」も全ての言葉がすれ違い続けた二人がとうとう抱擁を交わすのに成功し、胸中の言葉をそれぞれに与え合ったことに起因する結末だからである。自身の長い髪を握る仕草で、発するべき感情や言葉を抑え込んでいたロングヘアーの少女が、相手に全体重を委ねるようにして自らの身体を捧げた抱擁の瞬間、あのシーンに同居した美しさと残酷さだけはどうしたって筆舌には尽くしがたいものがある。茜射す生物学室の隅っこに二人の女子生徒。この映画的な山場でさえカメラは騒ぎ立てるようなことをせず、ただひっそりと二人のことを映しこんでいる。

 

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 この映画では、童話「リズと青い鳥」の物語になぞらえて、二人の少女のうち、どちらが独りぼっちのリズで、どちらが飛ぶための美しい羽根を持つ青い鳥かということが盛んに話題に上るのだが、それは根本的に間違っている議論であっただろう。映画は、どちらの少女も青い鳥であって、それぞれがそれぞれの空へ飛び立っていけることをはっきりと描いている。その証左として、映画の終盤、二羽の青い鳥が空高く飛び立っていく映像が15秒以上にもわたり挿入されていたことを観客の誰一人として見逃さなかったはずだ。もちろん、その二羽の青い鳥とは二人の少女のことをそのままに写していたことは言うまでもない。

 そして、少女たちはとうとう二人揃って校舎外へと足を踏み出した。この学校という鳥かご(あるいはそれは青春時代のシェルターであり、時が止まった宮殿だったのかもしれない)から二人して飛び立っていくのだ。この時、先に門を抜けるのがそれまで後ろを歩き続けていたロングヘアーの少女であることを見逃してはならない。二人の歩く距離感にもそれまでのよそよそしさはほとんどなく、一瞬ではあるが足音が綺麗にシンクロしてみせたりする。今や少女たちの関係は対等なものとなった。残酷なまでに映画を支配していた二人の間のディスコミュニケーションは今やはっきり融解したと言ってもいい。外面的には、何の事件が起こったのかもさっぱり分からないような、動的なシーンが希薄だったこの物語ではあるが、彼女たちの内に宿る気持ちは確かに始めの頃とは何もかもが違っている。

 

 これは青春時代を生きる少女たちの微妙な、しかし確かな成長を静謐に描き切った、他に類を見ない大傑作である。間違いないだろう。

 

 

 青春時代はやがて終わりを迎える。それまで当たり前だった日常に帰れなくなる瞬間がいつか必ずやって来る。比重の置き方さえ違ったものの、山田の作品ではこれまで何度となく描かれてきた主題の一つである。

 もしかしたら彼女たちは、不意に後輩部員から手渡されたゆで卵を、退屈な数学の授業で聞かされた素(そ)の話を、向かいの教室からフルートを介して送られた微かな反射光を、悔しさの涙で滲んだ青いスカートを、さらには夕暮れの生物学室で抱きしめ合ったあの時間さえもいつかは忘れてしまうのかもしれない。しかしそれでいい。

 幸い、この物語は一本の映画になった。不器用にも一瞬の触れ合いを求め続けた二人の恋の物語はフィルムという形でこれからも永遠に守られ続ける。きっと誰も二人の物語を忘れたりなんかはしない。

 

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