音のない世界で(『ドライブ・マイ・カー 』感想)

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 濱口竜介監督の作品は、これまでに何度も動く乗り物を印象的に撮影してきたことが思い返されます。2010年の『THE DEPTHS』でも、2012年の『親密さ』でも、並走した2台の乗り物が徐々に引き離されていくその様子をカメラがじっくりと捉えて終幕を迎えました。しかし、今回の乗り物の扱い方はそういった2つの運動のシンクロニシティーから発せられるプリミティブな映像的感動とは一線を画すようなものだったと思います。たしかに、本作でも並走した2台の自動車を同時に撮影する妙技は見受けられましたが、これは中盤の、言ってしまえば比較的どうでもいいシーンにおいてです。それよりも今回、自動車は終始「移動する密室」としての機能を果たしていたと言えます。その中で同じ空気を共有することによってしか開示され得ない人物たちの内面、そこから繰り広げられる、心情を吐露するような会話劇を周到に描くという、映画における自動車の別の持ち味が最大限に活かされていました。それに加えて、「演じる」という、これまた濱口監督が常々標榜してきたテーマも加わりますから、村上春樹のこの『ドライブ・マイ・カー 』を原作に映画を撮るというのは監督にとって至極真っ当なことであったのではないでしょうか。

 

 50p程度しかない原作小説に大幅な改変を施した本作は、最愛の妻に先立たれた舞台役者で演出家の家福が、女性ドライバーのみさきとの出会いをきっかけに、妻との別離に今一度向き合い、深い悲しみを抱きながらも、それでも生きていくことを決意する物語です。

 改変によって新たに生み出された沢山のピースが、3時間にも及ぶ長編映画を完成させるために一つも余分にならず、次々と嵌め込まれ機能していくかのような脚本の構成力にはただただ感服する他ないのですが、なんと言っても一番素晴らしいのは、亡くなった妻に「音」という名前を与えたことではないでしょうか。原作ではただの一度も名乗られなかったこの女性にあえて与える名前がsoundの音というのは示唆的です。どういうことか見ていきます。

 音は生前、車で移動する時間にお芝居の台詞を練習する家福のため、カセットテープに自らの声で朗読を吹き込みそれを渡していました。そして亡くなる直前、最後に吹き込んだのが、この映画の中ではメインに扱われることになるチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』です。映画のエンディングでも、この『ワーニャ伯父さん』第4幕のソーニャによる最後の台詞は、ユナの韓国手話によって美しく見せられました。

 しかし、ここで思い返したいのは、音が自宅のリビングで倒れているのを家福が発見する直前のシーン(オープニングテーマが流れるよりも前のアバンのシーンになります)で、駐車場に車を停めた家福がそのまま車内に居残り聴いていたのが、音の声が吹き込まれたカセットテープによる、まさにまったく同じソーニャの第4幕最後の台詞だったことです。

 つまりこの映画は、音(=sound)を失った家福が、「音」ではない「手話」という運動によって戯曲のエンディングをもう一度再演することで、音の死と向き合い、それを乗り越えようとする懸命な姿を描いているわけです*1。そう考えてみると、一度は高槻に与えたワーニャの役を、最後にはやはり自らで演じる決断を下すというプロットもたいへん通過儀礼的であります。

 ワーニャを演じる家福(を演じる西島秀俊)の、頼りなく今にも泣き出してしまいそうな、しかしそれでいてまっすぐに向いた瞳が、ソーニャを演じるユナ(を演じるパク・ユリム)の、2本の腕が繰り広げる熱く雄弁な手話のその一つの挙動も見逃すまいとじっと見つめるこの劇中劇の場面こそ、まさしく劇中の台詞にもあるような「二人の間に何かが起きていた」瞬間に他なりません。微かな換気音と息づかい、手話の中でユナの両腕がぶつかり響く音しか聞こえない、ほとんど無音に近い静寂の中で、ソーニャは視覚を通じてワーニャ(というよりもほとんど家福)にこう訴えかけます。

ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。

 台詞は同時に、昨年から続くこの変わり果てた現実世界を生きる観客の苦境とも深くリンクします。客席でそれを見ていたみさきの姿を真正面から映すのは、まさにこの映画を見ている我々一人ひとりの姿そのものと言ってもいいでしょう。

 

 映画はもう少しだけ続きます。『ワーニャ伯父さん』の公演が終了してしばらくの時が過ぎたと思われる韓国のスーパーマーケットでは、客が、店員が、みなその顔にマスクを装着しています。彼らの世界でもやはり感染症の蔓延は防がれませんでした*2

 そこで買い物を済ませたみさきは、かつて家福が所有していた赤いサーブに乗り込みます。もしかすると二人は今、この韓国の地で共に暮らしているのかもしれませんし、そうでないのかもしれない。緑内障の症状が進んだ家福が、ついに運転できなくなってしまったその車を彼女に譲ったということも想像できます。車の後部座席に家福の姿はなく、そこには代わりに一匹の白い犬が着座していました。ともかくみさきの運転する車はまっすぐと次の目的地へと走り去って行くのです。

 運転手がかわった車の走行を見せることで生まれる余韻(それは若干の寂寥感でもあります)は、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』的だとも思いますが、この映画から感じられる爽快感は決してそれだけではありません。車というパーソナルな空間に入ったらマスクを外すという、みさきが何気なく見せる至極当たり前の所作が、それを見せられるだけで現在を生きる私たちには驚くほどはっきり希望として映るのです*3。さらに、かつて彼女の右頬に付いていた事故の傷(彼女は自らへの戒めとしてこの傷を消すことができないでいました)がすっかり消えているのをこのシーンでは同時に確認することができます。映画に自己を投影した観客、投影しきれなかった観客、その誰しもが「マスクを外す」ということで発生する何層にも敷かれたカタルシスをたしかに感じたはずです。

 

 「列車は必ず次の駅へ」といえば『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の中で語られた重要なテーマです。しかし、赤いサーブで颯爽と走り去ってみせたみさきにだってどうやら同じことが言えそうです。サーブは次の未来へみさきを運びます。そしてもちろん私たちも。私はこの映画にたしかな希望を見出しました。

 

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 映画とはまったく関係ありませんが「マスクを外す」といえばノリアキの去年の曲はよかったですね。

*1:映画では、家福の運転する自動車を真横から撮ったときに見える前輪と後輪が、カセットテープのハブにトランジションするシーンが見受けられました。最初は面白いアイデアだなと思っただけでしたが、よくよく考えてみるとこれは、どれだけ歳月が過ぎても音の記憶を振り切れないでいる家福の弱さを端的に映した演出だったのかもしれません

*2:TVドラマで直截的に新型コロナウイルスを扱ったものには、野木亜紀子が脚本を書いた2020年の『MIU404』がありましたが、映画で見たのはおそらく本作が初めてでした

*3:これは書きながらに確信したことですが、おそらくこの映画の終盤では、みさきという存在を、映画の観客の姿とそっくり重ねられるようにキャラクターメイクしているのではないでしょうか。前述の客席にいた姿と、このマスクを装着している姿、彼女はいくつかのシーンで等身大の観客そのものとしてそこに存在します